
もしこの映画が評判どおりの出来で、しかも言われるようにこのハイビジョン・ビデオ映画『サラバンド』がベルイマン最後の作品となるのなら、これはまさにベルイマン映画の総決算だ。カール・ドライヤーの『ゲアトルーズ』のような独自の力強さをもつ『サラバンド』の中で、ベルイマンは繰り返し過去の亡霊を呼び覚ます。オープニングで、雑然と並べられた私的な写真に翻弄されて、自らの人生を分断するものを凝視しようとするマリアンに代表されるように。ベルイマンは「フィルムの過去」と「ビデオの現在」の間に横たわる深淵を覗き込む。その深みの中ではイプセンが喜ぶような素晴らしいドラマがあるのである。
“サラバンド”は17、8世紀に宮廷で踊られた二人で踊るためのエロティックな舞踏曲だが、映画『サラバンド』も二人の人間がもつれるたびに深まり激化する激情のダンスだ。ベルイマン映画の登場人物たちは必ず触れ合わずにいられない。そこには本源的な身体性が滲みでている。そして身体が触れ合うたびに、人間性の中で永遠に続く格闘を繰り広げる文明的理性と野生的獣性の衝突を感じさせる。映画の終盤近くで登場人物が素っ裸にされるのは当然の帰結だ。彼らを惑わせていた幻影は、衣服とともに脱ぎ捨てられ、もはや彼らに残された道は人生の儚い楽しみに身を委ねるか、不確実な死の祝福に身を任せるしかない。ベルイマンが最後に用意したヒネリをもって、私たち小市民的観客をこの映画が踊る“サラバンド”の共犯者に仕立て上げる。私たちがもつ偏愛的傾向と窃視症的性向を、リヴ・ウルマンの荘厳なクローズアップを通して表現した曖昧さとカタルシスと混合して、ベルイマンは映画の死と再生を描ききるのである。
<キース・ユーリック スラント誌>
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